仏教、禅

2014年10月 3日 (金)

十禅図その十

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十、入鄽垂手(にってんすいしゅ) - まちへ... 悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿になっている)が街へ出て、別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。

 布袋和尚は、唐末に実在したといわれている仏僧だ。日本では七福神の一柱とされ、黄檗宗大本山萬福寺で、三門と大雄宝殿の間に設けられた天王殿に四天王や韋駄天と共に安置されている布袋形の金色の弥勒仏像を見ることができる。この像は西欧人にマイトレーヤ(Maitreya 弥勒)と呼ばれる。(Wikipediaより)

 和尚ラジニーシが日本に伝わっていなかっと言っていた最後の絵だ。和尚ラジニーシに仏陀の第3身体に入ったことにより、奈良県の天河神社の宮司にマイトレーヤ宣言を読ませた。天河とは天の川のことである。彦星の一面である。ツキヨミの霊統はすでに日本に帰還している。あとは、スサノオの霊統の帰還が待たれる。

琴月

えっ?

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十禅図その九

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九、返本還源(へんぽんげんげん) - 原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中にあることを表す。

 悟りの兆しだが、通常の自我に戻ってしまうことを小悟(これは何度でも起こる)、完全な悟りを大悟とよぶことがある。仏陀は明けの明星が消えて行くのとともに悟りを得たと伝えられる。

 経典などで、「二つの目がひとつになり、体が金色に輝いたと表現されていることがあるが、これは悟りの前に額のチャクラが開く様を言葉にしたものだ。イエス、空海、日蓮関連の経典に見られる。チャクラは誰もが体験することではないが、仏教では第三の目や白眉と言われることがある。前に言ったように違う身体の経路を使う。

 大悟したものは、阿羅漢 (あらかん)、アルハットとよばれ、このまま昇天してしまうものもいた。仏陀自身、この世に留まるかどうか悩んだようだ。この時梵天がとめたという。梵天の作ったのが、梵語(サンスクリット語)である!

 悟りの後、肉体に留まるにはマインドが必要ななる。そこで、誓願をたて、人々を悟りに導こうとする誓願をたて、肉体に留まった者のを菩薩(ボディーサットバ)といった。他の宗教ではあまり聞かないが、それだけ、悟りに達したものが多かったのだろう。実に懇切丁寧でだ。

 涅槃(ニルヴァーナ)は、蝋燭の火が消えるように欲望の火が消えた静かなやすがぎの境地で、太母さんは大安堵と表現していた。

 しかし、悟りが最後ではない。光明はその後だ、頭頂の花が開くと、光のようなものに包まれる。それは頭頂の上30cm程の高さにある。それを感じた人々を仏像に後光をどうしても添えたくなる。あるいは聖者の頭に輪を描きたくなる。

 あなたが覚醒したら、外の世界である自然もまた、悟りを開く。すべては光のようだ。光明は智慧であり、慈悲のエネルギーだ。

琴月

十禅図その八

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八、人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) - すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の自然な姿に気づく。

全きは一なり

八は全て(十)を開く扉となるだろう。

琴月+α

2014年9月29日 (月)

十禅図その七

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七、忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) - 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。

 求道者は、静かに満月に祈っている。満月は仏陀、祖師達、ダンマの象徴だ。我が家に戻り、悟りは最初から自分の中にあったことに気づく。感謝に包まれている。

 自我にとって、悟りは最初目的だ。それを外に求めるのは自然なことだし、求道されなければならない。イエスは、「求めよ、さらば与えられん。」と言ったが、それは、弟子の質が、仏陀の悟り間近の弟子達とは違ったので、くつろぎなさいとは言えなかったからだ。

 道の最後には探求そのものも忘れなければならない。ここへきて、初めて、悟りは自分の中にありごく当たり前のことだったことに気づく。師の教えさえ忘れなければならない。人は、悟り間近になると真理の象徴をみることがあるという。ある人はイエスの姿を見、別の人は蓮の上の仏陀を見るかもしれない。仏陀は私の姿をみたらただちに殺しなさいと言ったという。

 ある求道者がやっとの思いで、ある師の元にたどり着いた。早々、師はこちらに来て仏像に礼拝しなさいと言う。仏像を前にまさに、腰をかがめたとき師は求道者を後ろからけり飛ばした。彼は大笑いして悟ったという。

 釈迦という いたずらものが 世にいでておほくのものを まよわするかな   一休

琴月

2014年9月28日 (日)

十禅図その六

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六、騎牛帰家(きぎゅうきか) - 牛の背に乗り家へむかうこと。悟りがようやく得られて世間に戻る姿。

 求道者は牛の背中に乗り、笛を吹きながら、家路につく。笛は中空の筒に穴をあけ、息を吹き込んで音をだす。自分は中空の竹であることを自覚した状態だ。喜びに満ちている。しかし、これはまだ、悟りの初期状態だ。家路につくとはまだ、帰る先があるということだ。真の自分自身、本来の面目という故郷に。

 しばし、外の風の音と共にあろう。

 …

 自然界にはたえず、いろいろなことが起こっている。まだ遠い台風の影響からか風がつよく、木や草をゆらす音が波のように聴こえる。しばし、音が小さくなり、今は鳥の声が大きく聴こえる。あえていうなら、これらの背後にある無音こそ空であり言霊アだ。腹に不動心を持て、それが、腹に中心が座るという意味だ。空は体の内に外にもあり、空であるがゆえに内と外に、境界である肉体と自我が存在全体にとけ込めば、常に一体だ。

 我々はすでに、言霊原理を知り、我々の中と外の言霊イが共鳴し音となっていることを知っている。悟りは言霊イと叡智エを開く扉だ。

琴月

2014年9月27日 (土)

十禅図その五

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五、牧牛(ぼくぎゅう) - 牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す。

 絵にはすっかり平和なムードが漂っている。背景には草や木が常にあり、自然との協調を示している。

 エネルギーが上昇しはじめると立っていられないこともある。そんな時は私はベッドに座っているというような自覚が必要になるときがある。あるときは肉体から出てしまうようなこともあるだろう。そんなときは慌てないことが必要だ。肉体に戻るという観念でまた戻ることができる。

 霊的なことは第3身体アストラル界だけで起こることではなく、次の第4身体想念体にも起こっている。私は似たような音楽のフレーズが同時期に別の複数の作曲家によって発表されることがあるこを不思議に思っていた。音楽だけでなく同じ分野の科学的な理論が時を近くして発表されることもあるだろう。人間には、いろいろな想念が出入りしている。これが想念体のプラーナだ。

 また、前に言ったように無数の霊団があり、想念を伝えてくることもある。達磨は9年間白い壁を見続けて座禅して弟子となるべき恵可の訪れを待ったという。これは動かないで素質のある者を来るから待てという指示があったからだという。オカルト協会はクリシュナムルティーに白羽の矢をたてた。これも九賢人界の指示があったからだ。これらのことは、通常、表にだされず、秘教に属する。

 座禅によって、エネルギーが落ち着くようになると、腹に空の中心が定まったような感覚をもつことがあるかもしれない。また、リラックスした自然に協調したなかで、悟りの一瞥を得ることがある。もはや、あなたには何の迷いもなく、存在している。鳥がないている。あなたの意識はそれに間に合う。車の音が聴こえる。それに間に合う。慌てるようなことは何もない。静かな平安だ。これは、一服の清涼剤のようなものだ。それとは逆に不安に満ち自分が弱弱しく自信のない状態を感じることもあるだろう。ときには怒りに満ち、悲しみに満ち、喜びに溢れることもある。これらは、あなたに出入りしている感覚なので、感情に同化することなく自分自身ではないことに醒めていることが肝心だ。それがエネルギーの漏れを防ぐことになる。

 クリシュナムルティーはこのように言った。小屋の中にいると。いろいろな音が聴こえてくる。道路工事の音が聴こえる。突如それは、生き生きとして私と一体となった。それは私だと知った。私の中でけたたましい音を音をたてている、道路工事人も鳥の声もすべては私だ。別の日、講演会の最中、ブザーがなる。「お聞きなさいブザーの音をそれはあなたなのですよ。」と。言葉を変えるとあなたの外で起きていることは、あなたの中で起きている。外で起きていることは、内で起きていると同じ意味だ。

 

 人には見ることも、聞くことも匂いを、かぐことも悟りのきっかけになりうるという。マインド(自我)は死ぬかもしれない。しかし、より生き生きと感じることができる。和尚ラジニーシは言う、あなたは死ななければならない。あなたからマインドをとったものこそあなたの個性だ。人はそれぞれ違う花だ。開花させなさい。

 あるおばあさんが徳山にいった。言った「私は欲張りです。どうしたらいいでしょう?」

 徳山は言った。「欲張りばあさんが死んで、一人の天子が生まれんことを。」

 人間は弱い何度も何度も失敗することもある。たとえ地獄に落ちてもこの道をいくというような強い決意も必要だ。

注: 過去の読書の記憶に頼っている部分は必ずしも、正確ではありませんが、言外の薫りを少しでも感じ取って頂ければ幸いです。

琴月

2014年9月25日 (木)

十禅図その四

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四、得牛(とくぎゅう) - 力づくで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものになっていない姿。

 牛は暴れ回っている。若い僧は、何とか制御しようとしている。

 悟りは、覚醒、慈悲の爆発だ。言霊ウの内包するエネルギーは、人間の場合、性エネルギーしかない。おそらくは、人間の本能、五感の感覚を満たそうとする欲望になりがちな同じエネルギーが覚醒、慈悲と変容するのだ。それなので、悟りは「泥の上の花」と喩えられることがある。

 瞑想や座禅を続けていくと、自分の性的な欲望に尚更、気付くようになる。それには本能ゆえに圧倒されがちだ。それに醒めていることができたら、エネルギーはあなたの内部で上昇しはじめる。

 禅では気づきがエネルギーの制御の方策となる。あなたは歩いている、あれやこれやの手足の動きに醒めている。最初はマインドを使わなければならない。全力の努力が必要だ。無理矢理全身に起こっていることに気付こうとしなければならない。

 仏陀は、背筋を伸ばして、座り、ただ自分の呼吸に留意していなさいといった。それは眠気を誘いがちだが、基本的な瞑想法だ。それは気づきを訓練するという側面もあった。その合間に視線を足下に落とし、全身に留意しながら、歩きなさいと言ったのだった。

 前に7つの身体について言ったことがある。肉体では入息、出息が肉体を維持している。それを起そうとする衝動がプラーナと呼ばれる。第2身体はエーテル体だ。快、不快の感覚が入ったりでたりする。イエスは、エッセネ派に属していた。クンダリーニはのエーテル体の経路を使っていたのだ。だから禁欲を強調する。ヨハネの黙示録もクンダリーニと7つのチャクラをそ説明している一面があるように思う。

 一方、仏教は、第3身体アストラル体の経路を使う。プラーナは磁気の出入り、あるときは力強く、あるときは弱弱しく感じる、として表れる。それなので、気づきを強調するのだ。所謂、霊能力が開いてしまうことがあるのはこのためだ。

 気づきは覚醒ではないが、冷静に醒めているという点で同じような質を持つ。やがてそれは観照をもたらすだろうが、3枚目の絵はその前の段階だ。ボディーダルマの絵を見たことがあるだろうか。なんと荒々しい表情をしているのだろう。慈悲など感じられない表情だ。それはある意味猛獣のようなエネルギーを相手に調教してきたからだ。彼のギョロ目はあなたを覚醒させる可能性をもつぼど、教滅だ。

 ここで、禅語をひとつ

髭もじゃもじゃな祖師達の絵をみて、師は言った。

「おやおや、こやつらには髭がないわい。」

琴月

2014年9月24日 (水)

十禅図その三

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三、見牛(けんぎゅう) - 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。

 不二の牛、言霊ウのしっぽを追いかけている。優れた師に出会い…、これが現代では、難しくなってしまった。禅の黄金期には、行く道は険しかったが師はたくさんいた。嶋田先生がおっしゃっていたように欲望先行の世の中ではますます絶望的な状況だ。

 クリシュナムルティ、和尚ラジニーシ以後、単発的に無名にちかい覚醒者はいたと思うけれども、今あやしいのはアンマと呼ばれるインドのアマチさんぐらいだろうか。推薦図書として、クリシュナムルティの「自我の終焉」、和尚ラジニーシの「般若心経」、「ダイアモンドスートラ」、「マイトレーヤ」手に入らないものもあるかもしれない。私の場合はこれらの本で存在の一瞥(種あるニルビーナ)を得た。まずは方向感覚を持ち、進んでいくと日常のなかで、瞑想的な時間が訪れるようななる。

 覚醒さえ、難しいのに師には、また別の資質が必要だという。現実問題、書物を読んで、一人で道を辿ろうとしている人が多いのではないだろうか。いまのところ、このような記事を書いて少しでも言霊原理を含め真理の一端をお知らせしたいと思う。

 本日は、道の途上に発生する諸問題について書いてみたい。

 最近、たまたまココログのツブヤキでお話ししていたのだが、霊媒、霊能者、宗教家の家系には狂ってしまった人が多い。このことがあって、私にではないが、前に瞑想は危険との警告の神事を受け取った人があった。過去において、多くの宗教は信仰を強調してきたひとつの理由は、そのためである。

 宗教には世の中に流布されている顕教と部分と秘教の部分があり、それらは、個々の弟子の状態に関わるため、直接口述されてきたのではないかと思う。しっかりした信仰、あるいは真理(ダンマ)への澄んだ信がないと迷いや狂気に落ちてしまう危険があるものがある。

 道の途上においては、希望するしないに関わらず、霊能力が開いてしまうことがある。実際、私は霊媒体質だが、これは、瞑想していたこともあるが、実際にはある理由によって、顕著になってしまった。何が引き金になっているかはここでは言えないが、ある仕組みがあり、成仏していない霊の浄霊の役割を目的とするものだった。

 その、もう一つの理由は、霊媒としての役割である。私は後で記憶に残らないような完全な霊媒になるのを避けてきた。したがって、紛れや間違いもあるだろうし、マインドが入り込む余地があるので、不完全な霊媒だ。審神者(さにわ)がそばにいないと危険なのだ。どういう霊統の方が入ったか解り、ほぼ個人を特定できる場合もあるが、ただ、感化があるとだけ書いている。

 それらが人間に起こる時、アストラル体(幽界)の経路を使うため、夢と同じ素材でできているからだ。それは磁気であり、霊媒の者は、力強く感じたり弱弱しく感じたり、振幅が激しく、当然、気分の移り変わりも激しくなる。映像や光をみることもあるかもしれない。前にもいったように自分に出たり入ったりするものは、自分自身ではないという強い気づきをもたなければならない。また、夢と同じ素材であるため、どかか、不確かな、不思議な感じがのこる。

 時には、本当に気が狂ったのではないかと思う程、不思議なことに遭遇することがある。祈りを捧げている最中に背後にバチンバチンラップ音が鳴りっぱなしなったり、家電にかってに電源が入ったり、連日連夜、悪夢を見させられたり、もし一人暮らしの人であれば、恐怖から不安に陥っても不思議はないだろう。実際、悪意を感じるものもある。私はあまり書かないようにしているが…。このように物理的に何かが起きる場合、霊というより、悪意ある生霊の方が多い気がする。びっくりはするが、慣れのせいか、恐怖心はあまりなく、相手にはしないものの、メッセージがある神霊かの場合もあるので、留意がしておいて、あとでそれに気がつく場合が多い。

 また、神霊であっても新しい知識の洪水に溺れる人もいれば、性格的に偏ってしまったり、もともと持っていた狂気に火がついてしまう人もいる。宗教家や霊能者の家系には実際多いものだ。また、最初はまともな宗教を目指していた者が教祖になったら、貧欲に走るようになり、事件に発展する例など、いくらでも耳にするだろう。

 ちょっと、脇道にそれてしまったが、もしかすると同じような現象に悩む人もいるかもしれないので、書いてみた。今のところ、強い信仰あるいは、澄んだ信、所謂、悪意がある霊や生霊を跳ね返すような強い気持ちを持つ以外、思い浮かばない。何か他に見つければ、また、書こう。

琴月

 

2014年9月22日 (月)

十禅図その二

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二、見跡(けんせき) - 牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。

今日は、いくつか禅語を取り上げてみましょう。

1. 趙州と犬(無門関第一則・趙州狗子)

 僧  「犬に仏性はありますか?」

 趙州 「無」 

 仏性(ぶっしょう)とは、仏の性質・本性のことで、人はブッダ(悟った人)になる性質を宿していうるという教理だ。言葉を変えると人間は製造中の神だという概念と同じだ。

「犬に仏性はありますか?」は、一見まともな質問に思える。「人間は仏性を宿していると言われている。犬にもあるのだろうか?」と。が仏性と言った時点で心(この場合ハートでなくマインド)は分別にとらわれている。迷いがそこにある。

 この「無」という答えは強烈だっただろう。臨済なら、「喝」と怒鳴り、徳山なら棒がとんできただろう。禅の師達は時に乱暴で厳しいものだ。

 その後に続く、無門の注釈の要約、抜粋

 悟るためには行き詰まらなければ、ならない。さもなくば、草木同然の魂だ。禅には、開祖からこの関所があり、それはただこの「無」ということだ。この禅宗無門関を通り抜けた者は趙州に会えるばかりか、代々の祖師がたと手をとりあい、同じ目持って見、同じ耳を持って聞くことできる。素晴らしいではないか。全身全霊をもって「無」の意味を知れ。「虚無」にも落ちいらず、「有無」にもかかわるな。いつも油断せず、この「無」を持て、そうすれば、燈明のようにバッと覚醒が閃くだろう。

 歌に偈して曰く

「趙州狗子」はこの通り、少しでも有無に心が渉れば、命は滅びる

 いきなり、この公案(問題)を解けと言われたら、我々は「仏性」という言葉からあらゆることを考え、行き詰まって、追い込まれ、呆然とするかもしれない。その時の一喝が悟りになりうる。このように公案とは覚醒しうる状況を作り出すものだ。無門は正しい悟りには大きな迷いと行き詰まりが必要と言っている。

 

参考サイト http://www4.plala.or.jp/mumonekai/

2. 碧巌録第二則 趙州至道無難

ある時、趙州、弟子たちに言った、

「至道(何時何処でも普遍的に当てはまる最高の真理)とは難しいものではない。ただ、ただ揀択(けんじゃく=えり好み、分別意識)を嫌うだけだ。わずかに一言言えば、すでに、揀択か明白(解釈してしまうこと)に落ちてしまう。この老僧には揀択に対するこの明白という裏はない。お前達は私の悟りを持って帰って大事に護るかとうか?

一人の僧が前に出て問う。

「既に明白が裏にはないとおっしゃいました。これの何を後生大事に護って生きるなければならないのでしょう?

趙州 「わしも知らんわい」

僧  「和尚はすでに知らないといいましたが、なんで、『明白は裏に無い。』と  

    言ったのですか?」

趙州 「質問することはすなわち得心してしまっている。礼拝してトットと退きなさい。

参考サイト http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/hekigan1.1.html

 人間の心は言葉を二元的にしか解釈できない。昼夜、善悪、愛憎などのように。実際には、生きていればそれらは入り交じっているものだ。趙州は揀択の反対語としての明白というものはないと言っている。これは、最初から私は何も知らないという言明であり、巧妙な罠なのだ。

 案の定、一人の僧が引っかかって物を言う。明白という言葉は悟りそのものではない。ここで、師の「知らない」という言葉を聴き、さらに師の言葉を遡って、論理的にやり込めようとする。

 私は何も知らないといっても、悟りは「私は誰、ここはどこ?」とは違う、肉体は地上に立っており、脳は正常に機能している。ただ目覚めている、意識の光に包まれている。例えば、私は既に禅語は初めて目にするものでない。慣れてしまっている。マインドはそれらを得心し、体系化してしまうほどに巧妙だ。だから、油断なく気づきを持たなければならない。人間には、性エネルギーがあり、漏らさずあれば、上昇しはじめる。それが、覚醒、慈悲、光明へと変容するかもしれない。我々は、何度でもまた闇に落ち込むだろう。けれでも何度でも試してみるしかないだろう。

 仏陀はは「ありのままでいなさい。」と言ったことがある。それは、その弟子が覚醒の間近であるということを知っていたからだ。入門したばかりの新しい弟子に「何もしなくていい、変わらなくてもいい」ということではない。

 時折、人間は無意識に言霊オ(記憶)に使われてしまうことがある。人間が持たされた。それはパソコンのような機能なのだから、使いこなす主人が必要だ。その主人を禅では本来の面目という。そこに至るには油断のない気づきが大切だ。

3. 第3則 碧巌録 馬大師不安

 馬祖道一禅師の晩年のことである。禅師の病は篤く、もはや臨終も時間の問題だった。

院主  「和尚さん、お加減は如何でございますか?」

馬大師 「日面仏(にちめんぶつ)、月面仏(がちめんぶつ)」

 日面仏とは千八百歳という寿命の長い仏様で月面仏は一日一夜という寿命の短い仏様だという。院主は慌てふためいて、駆けつけたのかも知れない。そんな彼に「寿命の長い仏もいれば、短い仏さまもいるではないか。」と答えたのだった。

 馬大師は馬祖道一(709~786)のことで、200人以上の弟子たちを悟りに導いたと伝えられている。そんな偉大なは師は臨終の間際まで、弟子を悟りへの道に導こうとするのだった。

 肉体には残念ながら、寿命がある。地球上の生物で人間だけがブッダになるチャンスがある、昔、チベットでは入門した弟子はまず、そのことに感謝しなさいと諭されるという。

 琴月

2014年9月21日 (日)

十禅図その一

 さて、言霊、数霊についての情報はほぼ、言い終えました。言霊は実相を語ることができるという部分はアイウエオの段に分け、意識の光に照らして表現すると言葉では言えますが、大変なことですが、言霊の運用については課題にしておきたいと思います。

 宗教についてもいろいろ書いてきましたが、基本的には私は真理は語り得ないという不可知論者です。それでも、真理の探求という根っこの部分は貫いていきたいと思っています。神とか真理とか言われてきたものは理論ではなくて、体験であるべきものだからです。私自身も道の途上ではありますが、この世に残しておくべき題材ですし再確認の意味で十禅図に沿って、お話してみたいと思います。絵と廓庵( かくあん)禅師による注釈はWikipediaより引用させて頂きます。
 
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一、尋牛(じんぎゅう) - 牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。

 絵の○は、空を表していると同時に自然を描いている。言霊アを表している。牛は言霊ウ、これは、ア吾とワ汝に分かれる前の原初の卯だ。宗教に置いては、不二の境地(悟り、サマディ)を意味している。イエスは言う。この小さな種さえもこの地上を草で満たすであろうと。言霊ウは、まだ表に出ていないが、宇宙のおいてはビッグバン、人間においては性エネルギー、いずれも世界を満たすほどの原初のエネルギーを内包している。春の訪れを最初に告げるのは梅の芽だという。それ故に梅の木に例えられてきた。

 今、秋の虫だちが、鳴いている。我々は時折、雑多な思考や感情を離れ、生まれたばかりのような新鮮さで、耳に入ってくる。禅においては、仏陀は足跡を残さない、草はひとりでに生える、禅堂の僧には顔がないなどの祖師だちの言葉、経典などをみて、何を言っているのだろうと疑問を持ち、探求の始まりとなる。

 そうでなくても、人間は時にこの目の前にある地上はなんだろう、我々は何のためにここにいるのだろうと実存的な疑問を持つことがあるだろう。乗り物を運転しているとき軽い座禅のような状態は突然やってくる。目の前には道路の状況があり、我々の肉体はただだだ、操作することだけがある。我々には醒めた意識がある。それは透明であり、清らかな意識だ。なんとも心地よい。そんな時、我々は十全であり、存在との隔たりを感じない。スポーツの最中にそれは起こるかもしれない。しかし、また日常に追われ、暗闇の中にいる。が、出発点はそれで十分だ。一度でも味わってしまうと乾きは残る。あれは何だったのだろうと。

 その疑問を持つとまずは外(書物や師)を探しまわるようになる。それは論理的な答えはないと言う意味で馬鹿馬鹿しくも、真理、悟りの探求という意味で真摯な発心だ。

琴月