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2017年8月20日 (日)

ARION語録 11〜15

ARION語録  11

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【1】(儀式次第)

かごめ、かごめ かごの中の鳥は

(A-RI-O-N)

いついつ 出やる 

(今、今、出やる)  

夜明けの晩に     

(真昼の荒れ野)   

ツルとカメがすべった

(うつつと夢が合わさった)

うしろの正面だあれ   

-------------------------------

【2】

かごめ、かごめ かごの中の鳥は

(A-RA-A-A-)

いついつ 出やる

(今、飛び立つよ)

夜明けの晩に 

(真昼の荒れ野)

ツルとカメがすべった

(ツチとアメが交わった)

うしろの正面だあれ

-------------------------------

1、うしろの正面だあれ

(あなた、そして私)

2、うしろの正面だあれ

(あなた、そして、あなた)

3、うしろの正面だあれ

4、うしろの正面だあれ

5、うしろの正面だあれ

6、うしろの正面だあれ

(祈り)

我らは大地に請願する者なり

我らは大空に請願する者なり

我らは大天に請願する者なり

我らに力を与えたまえ

我らは男であり女であり、我らは一にして二の子である

我らにソロモンの知恵を授け、その力を行使する権利を与えたまえ

宇宙大帝に請願する、我ら盤石とならん事を欲する者なり

このヤマツクニに盤石とならんとする者である

(マントラ詠唱)

(質疑応答)

あなたはだあれ?(私はワタシ)

あなたのうしろはだあれ?(私はワタシ)

---以下、同様の質問---ナイフを胸に突き付ける

かごめ かごめ (今、開かれる)

かごの中の鳥は (今、飛び立つよ)

いつ いつ 出やる (今、今、飛ぶよ)

夜明けの晩に (真昼の荒れ野)

ツルとカメがすべった (ツチとアメが合わさった)

うしろの正面だあれ (私・あなた・あなた・私)

(マントラ詠唱)

終了後、参加者(霊)をシャボン玉に乗せて見送る

   _______________________

   ARION語録  12 

(1)転生する時に『私』という自我感覚は失わないが、霊界での

   記憶や以前の人生の記憶は潜在意識の奥にしまい込まれる。

   霊的なレベルが高くなればなるほどに自我とは何かを知る様

   になるので転生する必要性について考察してから転生する様

   になる。

   霊的レベルの低い者は、転生に関して不安を抱く者も多い。

   神霊達や守護霊達は、彼らには大まかな話しか出来ない。ま

   だ理解出来るところまで達していない霊達は転生は必要不可

   欠な事と教え込まれる。そしてその時期が来たら霊達は仮眠

   状態に入り、神霊達や守護霊達の選んだ肉体に入る準備をす

   る。

   全ての霊が自分の転生について、決定権を持つ訳では無い。

   自分で決定する能力を有していない、そのレベルまで到達し

   ていない霊達は意外に多い。そして多くの発展途上の霊に

   は、神霊は直接には話すことは無い。守護霊が代わって彼ら

   の面倒を見ている。

   神霊が関わるのは、かなり霊的にもハイレベルに達した者だ

   けだ。これは振動数が大きく異なる者どうしが、話し合うこ

   とが出来ないという風に理解して貰ってもいい。

(2)これから市民レベルの意識革命が起ころうとしている。全世

   界の有識者が日本の動向に神経を尖らせている。それは何故

   か? 日本こそがこれからの世界の運命を左右する力を持っ

   た国だからだ。国と言うよりは、むしろ国民と言った方が正

   しい。日本という国土に育まれたボデイに今世紀転生できた

   魂が地球の動向を握るからだ。

   市民レベルの意識革命の発端となるムーブメントは、避けて

   通ることは出来ないんだよ。生命の存続を賭けたムーブメン

   トだ。これは、『原子力発電』に関するムーブメントだ。私

   達も『運動』は好まない。これはギリギリまで追い詰められ

   た人々の革命だ。全て生命あってのことなんだから。これは

   大袈裟でもなんでもなく本当の事で『世紀末的絶滅思想』と

   も関連しない。私達のプロジェクトのもう一つのグループが

   携わっているムーブメントだ。とても現実的と言えば現実的

   なムーブメントではあるがね。

(3)文化人や著名人・有名財界人は既に地位も名誉も財産も手に

   入れてそれらの保持を続ける毎日だ。誰もが地位や名誉や財

   産を欲したがるのは何の為だろうか? それらがある方が自

   分の思う事を実現しやすいからだろう?

 

   少なくとも、それらを手に入れる途上では目標や目的はそれ

   ら地位、名誉、財産では無い筈だ。それらを手に入れるのに

   苦労して手に入れたら今度は手放すのが惜しくなって当初の

   目的を忘れてしまう様だ。

 

   又、手に入れる事が目的だった人は手に入った後は一体何の

   為に生きてゆくのだろうか? 『人生の折り返し点を随分前

   に通り過ぎた。今更、私の人生はやり直しが効かない。地位

   も名誉も財産も手に入れた。この先は静かに年老いてゆくの

   もいいじゃないか。我々の時代は終わった。』と言うのが彼

   らの常套句だ。

   『何を今更、シンドイ目をして』とか『このままで充分幸福

   じゃないか?』とか、まるで死を待つ老いた白鳥の様だ。こ

   ういった姿勢の文化人、著名人、有名財界人、そして彼らだ

   けじゃない一般の45歳以上の人々のこれらの言葉は一見平

   和を望む老いた人々の言葉の様だけど、実は非情な利己主義

   者の言葉だ。

 

   自分達は余命いくばくも無いから、後はもういいんだなんて

   実は言っている訳だ。これは大きい自己欺瞞だ。誰もが自分

   の事を『老いた』なんて思いたくは無い筈だ。少しばかりズ

   ルくなった自分の心境を『老いた心境』にスリ替えている訳

   だ。

 

   進化してゆく事を忘れてこんな事を言って貰っては困る。そ

   してボディが進化してゆかねば進化した魂の器がなくなって

   しまう。自分の直系の子孫に遺産を遺せば、それで良いのだ

   ろうか?人々の魂は自分の直系の子孫の身体に転生する事は

   希な事なのだから、全ての生命が安全に進化するべきだ。

(4)『物質を持つという事が物質的な執着心を持つことにはなら

   ない。持っていても執着しなければいい。物質を持たない努

   力をすることで執着心を持たないというのも変だ。物質的な

   執着心を持たない為に捨てよう、失おうとして、失うことが

   気になって、かえって執着してしまうくらいなら失くさない

   方が良いのじゃないか?

   これは、一つの意見だが間違っている。失うことが気になる

   のは執着心が強い為で、それを失わないことで気にならない

   というのでは結局、執着心を捨てていないことになる。

 

    物質的なことに執着心を持つのが霊的修業に邪魔になる訳は

   物質的なものの持つ低い周波数に捕らわれる事が危険だから

   だ。捕らわれないなら持っていても良い、というのはある意

   味では正しい。物質的なことの持つ周波数に捕らわれていな

   いなら同じ意味で失う事にも全く関心を抱かない筈だから

   だ。その人の活動に不必要なものは霊的修業中の人ならば持

   たないのが理想だ。

 

   そして多くの修業は『捨てる』事から始まる。捨てるという

   能動的な行為は、自分のそして他人の執着心から自由になる

   には最も効果的な方法だからだ。全てを持ったまま、何も失

   わずに修業を続けるのは至難の技だから。それが出来た人を

   私は未だ知らない。破壊することで創造するというのはそう

   いうことなんだ。捨てることで手にいれる訳だ。

 

   あなたがたもよく知っているイエズス・キリストが、言って

   いる。『自分の持ち物を売って、施しなさい。自分の為に古

   びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破

   らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。あなた

   がたの宝のある所には、心もあるからである。』

   -ルカによる福音書第12章、33行-

 

   自分の為に古びることのない財布を作るとは、自分の魂を清

   め高めるということだ。

(5)大いなる天界の息吹より伝えられしものを、あなたがたは持

   っているということを教えよう。大いなる天界の息吹より伝

   えられしものとは、あなたがたの魂、あなたがたの心の奥の

   ものだ。人は二人の主人に兼ね仕え、二人の主人を共に満足

   させることは出来ない。

   人は物質と精神の両方に仕えることはできないし、自分の体

   と高級我に仕えるのも無理だし、家族への義務と自分の普遍

   的義務とをいずれの権利も侵害しないで果たすことは困難

   だ。

 

   『天界からの静かな小さな声』に耳を貸して、取るに足らぬ

   者らの喧騒を聞き逃すか、又は取るに足らぬ者らの要求ばか

   り聞いて『天界からの静かな小さな声』につんぼになるかの

   どちらかである。

 

   すでに現世で結婚している人々にとって、神霊界の掟に従い

   たいと思う事は恐らく苦難の連続だろうと思う。見聞きした

   神霊界の事々を理論的に処理し学問として修める方が、実際

   の物質的生活の運営は楽になるだろう。

   神霊界の事々を理解し実践しようとする人には、実際の物質

   的生活は絶え間無い争いと醜い欲の交錯として捕らえられる

   だろう。

 

   神霊界の掟と現世的な掟の両方に従い、かつ神霊界の事々を

   理解し実践し身に付けようと思う人は、いつも非人格的な神

   霊界の声と人格的な現世的愛との間でためらっている自分を

   発見する事になるだろう。そして、そのどちらも不満足のま

   ま、恐らくは以前より現世的な生活を続ける自分を発見する

   だろう。

   しかし、誰も自分の持っている能力以上のカルマの重荷を背

   負うことにはなっていない。真理、善、知恵を恩恵を与えて

   くれるが故に愛するのではなく、真理、善知恵であるが故に

   愛する人は人生を重荷とは考えないだろう。

(6)銀河の果て、遠い遠い星の時間の彼方より降り続ける愛の夢

   あなたがたの瞳の奥の雪降るしじまへと続く、愛の夢

   世界中の人々が飢え、弱り、悲しみの淵に沈み私達の愛に向

   かって手を伸ばす時にその時こそ、あなたがたの星降る愛が

   必要なのだ

   あなたがたは、今現在何をして良いか分からない状況かも知

   れないが何をするべきかは各々の心の深奥が知っている筈だ

   難しく考える事は止めて、物事をあるがままに見詰め物事を

   あるがままに受け取り、そしてあるがままに働きなさい

   あなたがたに必要なのは愛と勇気とそして信じる心なのだか

   ら薔薇色の夢は遠いところにあるのではなくあなたがたの心

   の深奥にあるのだ

   あなたがたの心の深奥にある息づいているその赤い命に気付

   く時に蕎薇色の馨しき霧を放ちあなたがたの夢は生命の躍動

    を始める

   さあ、時は満ちた、出掛けなさい

   何も恐れることはない、躊躇することもない

   さあ、出掛けなさい

   あなたがたの薔薇色の夢を凍える人々に分けてあげなさい

   あなたがたを阻むものはない

   あなたがたを傷付ける者はいない

   あなたがたを待っている

   星々の彼方から見守る瞳を感じて、行きなさい

   額を光の方向に向けて、真っすぐに歩きなさい

(7)大多数の地球人は、霊的・物的進化の遅れた星地球の理学的

   範囲を超えない所からやって来ている。つまりこの地球を含

   む太陽系のどこかから来た魂で、非常に進化した魂は10%

   に満たないのだ。シリウス星系から来た魂は非常に少ない。

   今ここで何人いるという風には言えない。確かに進化した魂

   は少ない。

   _______________________

ARION語録  13 

 あなたがたは、自由になりたい、自分を解放したいと言う。あなたがたは決して自由に「なる」ことを欲しているわけでは無い。あなたがたの本当にしたいのは自由になる方法ではなく、自由についての説明だ。あなたがたは決して自分を解放したいのではなく、解放されるとどうなるか?を説明して欲しいだけだ。

 あなたがたは、自分に色々な問題が起きた時に解決法をアレコレ考える。しかし解決法は自分の外側にあると、決めて掛かっている。自分の内側に解決法があるとしたら、自分自身が変化しなくてはならないからだ。自分自身が変化することに対して恐れを抱いているから、自分の外側に解決法を是が非でも見つけなくてはならない。

 あなたがたが『自分』と呼んでいるのは、あなたがたの表層的な感覚に因ればあなたがたの所有欲の対象であるモノの集合体のように感じるだろう。つまり、『自分』と名付けることの出来るモノが『自分』なんだ、とね。しかし本当の『自分』とは、名付けることの出来ないモノも含めた存在であるということを忘れてはならない。

 人間は名付け親になりたがる。何でもかんでも、名前を付けて『自分』の範囲に収めようとする。これは、『自分』の範囲が名付けられるものだけで、成立していると誤解しているからに他ならない。

 人は、説明したがる癖も持っている。どんな状況も自分の「納得する」システムのやり方で、説明が付かなければ気が済まない。『自分』の勧めるシステムのやり方で全てに説明を付けてしまうと、『自分』のシステムの上だけに世界が拡がるので、安心出来るのだろう。 箱庭のように、全てを俯瞰できないと我慢出来ない人には、未知の世界のことは不要な世界のこととなる。

 全てのことに説明が付かなければ気が済まない人が、未知のモノに出会うと大急ぎで自分のシステムの中の言語で説明しようとするが、それでも説明の付かないものに対しては「○○に似ているから、○○と同じ傾向のモノだろう」と勝手に表層だけの判断を与える。こうして、このタイプの人は本当のことから遠ざかる。何もかも説明出来ないと気が済まないのは、臆病な性格の人間に多い。

   _______________________

ARION語録  14 

  シュミレーション社会はどこまでいっても模倣でしかない。今後、ますます実体験をともなわないシュミレーション・システムが増加するだろう。人はますます実体験を避けるだろう。この傾向は都市の無機質化を推進するだろう。現在の東京の無機的な姿はそっくりそのままそこで住む人々の心象風景だ。

 人はいつも自分達の心の中にあるものを外部世界に存在させる。相似形をいつも作ろうとする。そしてこれは、一部の建築家に代表される「ものを作る側」の人々の心象風景だ。その他大多数の人々は、彼らの心象風景を自分のものとすることに異議を唱えない。自分達の生活空間に対して、全く情熱を持たない。シュミレーション化に慣れている為に現実を現実として捉えることができなくなっているのだ。

○象徴されることの体系について

 

 象徴化、シンボライズは現代人の得意技のひとつである。外的事像の起承転結をカテゴライズしたがる。その方が理解した気分になれるからだ。全ての思考が体系化している。全ての思考に論理という脈絡がつき体系化されている。多くの人は気付かない。この体系化の先に何が「結」として存在しているかを知らない。

 この論理体系の先には人間は居ない。あるのはシンボライズされた「生命であったことのあるものの破片」だ。そんなものをありがたがっているアカデミズムの教師達、そして自称インテリの人々、自分が細片化してゆく様をどこに見るのか?

 

 そう、それは紛れもない事実として、しかし宇宙生命潮流の映し絵ではなく論理優先主義の結果という事実として、あなたがたの住む町の中に見るのだ。この世に血の系譜つまり生命を燃やすことの情熱のほとばしりとしてのアートが少なくなるとき、それは外殻化現象の始まりだ。

 血の流れない、血の動きを感じさせることのできない、血の温度を感じさせない固い甲殻におおわれた心を持つ人々が大多数になってゆく。それは薄気味の悪い人間型冷血甲虫の群れの出現だ。傷つきにくく、中を見られにくい固い甲羅でおおわれた、人間の群れ。

 そんな群れの中で本当の情熱や愛情は何の意味も持たない。熱いか冷たいか、多いか少ないか、高いか低いか、満ちているか干いているか、全てが2次元的なグラフ上の上下になってゆく。

   _______________________

ARION語録  15 

「場」の崩壊と「私」意識の存続について

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何もかも移り変わってゆく中で、『自分』という意識だけは置き去りにされてゆく、と思っている人は多いが、この意識自体が本当は移り変わっていることに気付かない。万物流転の法則に逆行するものは、何一つ無い。「私」という意識は、本当に不変なのか?

 

5歳の「私」と20歳の「私」、30歳、40歳の「私」の共通項は何か? 人間の五感すら変化してゆく、育ってゆく。そういった万物流転の法則の中で不変なものはあるのだろうか?

 

人は、「私」という意識が不変であるという事を信じたい、と思っている。「私」すら変化してしまうのであっては、どこに基準をおいて良いのか分からないと思っているからだ。

 

こうして人は自分自身の存在に思いを馳せ、その思いの中の普遍的な部分を論理体系化し哲学、或いは宗教という名前で分類してきた。こうした普遍化された「思い」の体系も、この90年代に入って見直しが迫られている。それは、何故だろうか?論理化、体

系化されてきた「思い」の基盤となる人間の生活基盤自体が崩壊し、普遍化という名前が陳腐なものになろうとしているからだ。

人は、そろそろ気付かねばならないだろう。人、と呼ぶ自分達の仲間である生物自体の生活基盤というものが、既に個化され共通基盤となり得る生活と呼ばれる「場」が崩壊してしまったことを。特に日本という国の文化は、「場」と呼ばれる共通磁場形態を介しての成立を持つ文化だっただけに、その「場」の崩壊は文化の崩壊を意味する。特殊な「場」の文化形態が崩壊してしまった時に、人の取る行動は何か?「群れる」という代替行為にも、文化の崩壊後の人の混乱が映しだされる。

こういった生活基盤や文化の崩壊の中で、「私」意識を保つ為に人が進んで行おうとすることは何だろうか? 「私」を構成する要因となる『自分』の特色を映しだすモノの認識、そしてそれらのモノが確実に自分自身の存在理由を示すかどうかの確認…その上、それらのモノに関連する者や物を探す、探して仲間になり仲間同志で結束してゆこうとするだろう。

 

何故、結束しようとするか? それは、『自分』の存在理由を映しだすモノの正当性と確実性を高める為だ。不安や自己の脆弱性を「群れ」になることで補おうとするのは、弱小生物の基本的な生活本能だからだ。イワシや蚊も群れになって行動する。

 日本の「場」を介する文化や習慣は、人々の意識によって支えられ、そしてその文化形態としての家屋や通りの様式などにも支えられて来たが、戦後の欧米化の波をまともに受けて、それらの家屋や通りの様式は崩壊した。それらの形態の変化と共に、家族のあり方や人間関係のあり方も変化した。いままで「お国(という場)の為」や「社会(という場)の為」に働いた人々は「自分と呼ぶ認定範囲の中だけの為」に働くようになった。

 

そして、欧米化の波を受けた家屋形態は、閉じる方向へ閉じる方向へと進路を変えていった。家族も核家族化して、益々「自分と呼ぶ認定範囲」は狭くなった。地域の場は崩壊し家庭の場も崩壊している今、人の「場」は自分の立つ40~50cmの小さいものとなり、既に「場」と呼ばれ得ないシロモノと化した。元々、人々が働いて築いてきた「場」の文化は終焉を飾ろうとしている。それと共に、稲作民族として栄えた日本のアジア的なルーツのもたらす安心感も揺らいで来ている。

狩猟民族である欧米人の社会は、元々「場」というものを可変なモノとして認識し、その「場」の構成員である「個」に帰属させるという考え方であったので、アジア的な稲作民族の「場」の意識と、欧米的な「場」の意識とでは雲泥の差がある。その雲泥の差のある欧米意識が練り上げた人間関係のノウハウと、そもそもアジア的な意識の日本人の人間関係のノウハウは、基盤となる人間関係の「場」意識が異なる。現在、この欧米的なノウハウが持て囃されるようになった一つの根拠には、この現代日本の抱える「アジア的稲作民族意識の崩壊」が大いに関与している。

しかし、ここで私は問題提起をしたい。「アジア的稲作民族意識の崩壊」はイコール「欧米式狩猟民族意識」への、帰属であるのだろうか? 生活様式や論理形態を欧米化の波が洗ったからとて、真に欧米と等しくなった訳ではあるまい。表面的な形を幾ら変えても、そして幾星霜の年月が過ぎようとも、日本人の心と体の中には「アジア的稲作民族意識」の片鱗が舞っているのでは無いだろうか?

「私」という意識が不変であることを願う人々こそ、自らの心と体を養うルーツがどこにあるのかを識るべきだ。何故ならば、あなたがたが望む「私」とは、無数の他の「私」達に支えられた「場」に立ってこそ、安心することが出来るからだ。この「場」は、我が身と我が欲の為にだけ働こうとする人には無縁なものだ。人は「場

」と「自分」の両方に働いてこそ、安心して生活出来るのだ。これは欧米ではなく、この日本の人々の為の話だ。自分の存在意味の映し絵であるモノの共有ではなく、自分の心と体を養うという目的

の共有という意味での「場」を作らねば、本当の結束はあり得ないだろう。単に「群れる」だけでは、本当の意味での安心感は得られない。自分の都合や自分の欲を先行させた「群れ」は、結束力は無い。単体でいるよりは、群れの方が大きく見える、とそれだけのことだ。

 「アジア的稲作民族意識」からの脱落が、アジアの人々の意識からの脱落を意味するとしたら、これは日本の存続という観点から見ると、たいへんに危険な事だと言える。どんなに姿形が欧米化しても、日本人の成り立ちを構成している素因はアジアからのものなのだから。そして如何に欧米の思想や哲学、そしてそれらに関連するノウハウを身に付けても、日本という場の記憶素子は、脈々と受け継がれてゆくだろう。

 

この記憶素子に抵抗すればする程に、日本人の不安感や焦煉感は増すだろう。現代日本社会は、この不安感や焦燥感を欧米式ノウハウのセミナーや、教科書でテクニカルに処理しようとして、益々それらを煽るという悪循環を操り返している。自分の帰属するべき「場」を持たない人々は、形だけでも「群れ」を目指して数々のカルチャー・センターや新興宗教に集まる。しかし、これらの「仮の場」は本物の「場」の持つ、深い安心感を与えることは出来な

い。右往左往する人々の目の前に、これでもかこれでもか、と新しい「お題目」が提示され、人々は飢えた魚のように新しい餌に群がる。人々の求める深い安心感は、人々の意識と献身によって支えられる「場」であり、そしてそれは、新興宗教やセミナーといった「考え」のもたらす「場」では無い。

 

あなたの帰属する「ツチ」とその恵みである「コメ」、そしてそれらを「ヒト」との契約の証として置かれた「カミ」という名の、大いなる大自然の全てに対しての感謝と敬虔な思い、そしてその思いを形として継承してゆくべき「ムラ」という名の集合体、それら全てに関与し働くことで得られる「場」なのだ。

私は、ここで国粋主義をうたうつもりは毛頭無く、欧米思想の排斥を願うという訳でもない。日本人であるあなたがたの奥底を流れる、アジアの血脈を無視していては、これからの世界に生きてゆくことが困難になってゆくと、言っているのだ。

 

今、ひとたび日本の「カミ」「コメ」「ツチ」「ヒト」と、それらと関わる人々の共通の安心の「場」であった「ムラ」という形態を思い起こし、考慮して欲しいと願っている。

 

「ツチ」という共有意識も単に金銭で売買する単位では無かった筈だ。「カミ」も単に「御利益」の為では無かった筈だ。「コメ」は単に食料を成すものでは無かった筈だ、稲作という農業形態が多くの文化や思考形態、そして人間関係をも成してきた筈だ。「ヒト」は単に人間と呼ばれる、生き物だったのだろうか?「ムラ」は単に人が群れているところでは無かった筈だ。 終戦後、能率と開発、そして収縮を忘れた拡大に命を削り続けた日本人が、プラスやポジティブの為に裏庭に埋めてしまったモノ。清潔さや明るい光の当たるところを優先することだけを考え、暗いところにあるものを排除してゆく道すがら、忘れてしまったもの…。今、ひとたび、思い起こして貰いたい。何故ならば、思い起こしてゆく上でこそ、あなたがたの存在の「場」や価値についての暗喩を見いだすからだ。

1991/10/17 0:22

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