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2014年2月23日 (日)

般若心経(はんにゃしんぎょう)

般若心経(はんにゃしんぎょう) 

 青字は基本的にwikisourceからの引用ですが、若干、修正しました。

観世音菩薩は、深遠なる「智慧の波羅蜜」を行じていた時、

五蘊は「空」であると観察した。

 観音はサンスクリット語で、アポロギータシュヴァラで音を観るという意味です。波羅蜜はパーラミターで、霊岸(ひがん)への到達という意味ですが、言霊で解くと言の葉「ラ」に到達(ミター)するための修行をしていたという意味になります。パはパッと開くで太母さんのおっしゃる仏眼(霊眼=ひがん)が開くと同義と思われます。

 仏教でいう五蘊は肉体、感覚、想念、行為、認識です。これは物事を客観的にみようとする人間観察によって看破された人間の構成要素です。我々人間の存在の本性は空であると言っているのです。

 仏教でいう空は他の宗教である神と同義であり、空っぽなのではなく、AUM、アからンまで、存在の本性であるロゴスとしての言霊に満ち満ちています。言葉をかえれば、原子の世界といってもいいかもしれません。

シャーリプトラよ、

色は空と異ならない。空は色と異ならない。

色は空である。空は色である。

肉体、感覚、想念、行為、認識もまた同様である。

 色とは目に見えるも表象世界で言霊ワ、空とは目にみえない原初のアすなわち言霊宇宙のことです。言葉を変えれば、言霊ワは客体、言霊アは主体でヒンズー教でいう真我にあたります。

 すなわち、存在(言霊ワ)の本性は空であり、空(言霊ア)の内容が言霊ワであるという意味になります。、人間存在の本性もまた空であり、完全な主観は完全な客観であり、すべては一なるもの中にあるという表明です。

 

それゆえに、シャーリプトラよ、

すべての現象は「空」を本性とするものであるから、

生じることなく、滅することなく

汚れることなく、汚れがなくなることなく

増えることなく、減ることもない。

 

 この「それゆえに」は仏陀の弟子のなかで智慧第一と呼ばれたシャーリプトラはすでに悟りの一歩手前であったことを示しています。

 我々人間には肉体の死がありますが、肉体は土に帰り、霊はもとの空にかえります。彼岸とは霊岸(ひがん)のことなのです。

ゆえに「空」の中には、

色は無く、受、想、行、識も無い

眼、耳、鼻、舌、身、意も無く、

色、声、香、味、触、法も無い

眼で見た世界(眼界)も無く、意識で想われた世界(意識界)も無い

無明も無く、無明の滅尽も無い

"老いと死"も無く、"老いと死"の滅尽も無い

「これが苦しみである」という真理(苦諦)も無い

「これが苦しみの集起である」という真理(集諦)も無い

「これが苦しみの滅である」という真理(滅諦)も無い

「これが苦しみの滅へ向かう道である」という真理(道諦)も無い

知ることも無く、得ることも無い

もともと得られるべきものは何も無いからである

 ここで空の中には仏陀の教えさえないと言っています。それらは、真理へ至る方便であるからです。それは、言葉を超えています。

菩薩たちは、「智慧の波羅蜜」に依拠しているがゆえに

心にこだわりが無い

こだわりが無いゆえに、恐れも無く

転倒した認識である煩悩によって世界を見ることから遠く離れている。

 物質、霊のさ(違い)をとった悟りを目指す菩薩たちは、光明である言霊ラの智慧を拠り所とするため、心にこだわりや恐れもなく、煩悩によって世界を観ることから離れています。

 過去、現在、未来(三世)の仏たちも「智慧の波羅蜜」に拠り所とするがゆえに

完全なる悟りを得るのだ。

 過去、現在、未来にいたるまで、ブッダたちもまた、同じ光明を拠り所にするため智慧に満たされ、完全な悟りを得るのだ。(霊眼が開かれると同義)

それゆえ、この「智慧の波羅蜜」こそは

偉大なるマントラであり、

偉大なる明智のマントラであり、

超えるものなきマントラであり、

並ぶものなきマントラであり、

すべての苦しみを除く。

真理は偽りなきものだからである。

〔さて、〕「智慧の波羅蜜」というマントラを説こう、

すなわちマントラに説いて言う:

"ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー"

到達せよ、到達せよ、霊彼に到達せよ、霊彼に正しく到達せよ、 菩薩たちよ、ああ、すばらしい。

般若心経。

 真理は体験であって、直接言葉では説明できるものではなく、ここには知性を超えた飛躍があります。般若はパーリー語で(神の)智慧、心経は神髄の教えのことです。

 本来マントラは言霊であり訳すものではないと思いますが、内容の理解しやすさを優先しました。ガテーは道という意味で、言霊ラを開く道であり仏眼を開くという光明の智慧への道です。ミチは未知であり、神示では三千世界という表現をよくしますが、三千もミチと読めます。ここで、それは過去、現在、未来のすべてであることがわかります。

 

 このマントラは光明を目指す現在の音図であるアカサタナ=「明き悟りを為せ」の部分であり、東洋の精神です。マントラ自体も言霊で解くと、人間にラが留まるという意味になります。それは表象世界ワをみて真の自分自身アへ向かう探求の道です。そして、光明から太母さんのおっしゃったように「生きとし生けるものの大安心」という誓願が導きだされます。

 

 我々にもまた、この誓願という大きな乗り物にのって、数多の菩薩たち、ブッダたちと同じ真理をわかちあえる可能性がいつでもあります。ブッダたちはこう言います。

「もはや死はない。」

琴月

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